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ストーリー

ストーリー

山登りに熱中する傍ら、20歳で居酒屋を開業

1960年 なか一(なかいち)開店1960年 「なか一(なかいち)」開店1964年 横浜駅ホーム1964年 横浜駅ホーム 「なか一」の広告

中山商店は1935年、現社長の父、中山正之が横浜・西区で酒屋として創業しました。その5年後の1940年に、正之の長男として生まれたのが現社長の中山博允(ひろみつ)です。

博允が幼い頃、太平洋戦争の戦局悪化に伴い地方に疎開。終戦後、横浜に戻ったときは、空襲によって酒屋も家も焼けてなくっていました。日々必死に生きる一方で、学校の図書館にある本を片っ端から読みふける読書好きの少年でもありました。

高校生になると中山は山登りに熱中。大学入学後も山岳部に入部して授業そっちのけで年間何十日も山に入る生活を送っていました。それと並行して家業の酒屋の手伝いもするように。20歳の時には、横浜駅西口に季節料理「なか一」を開店し、連日大賑わいとなりました。お店は現在でも多くのお客様にご愛顧いただいています。

「世界をこの目で見てみたい」。海外へ旅立つ

時は1960年代はじめ。池田内閣が「所得倍増」をスローガンに掲げ、日本が高度成長期に入りかけた時代です。一方で日米安保闘争、東西冷戦など、様々な社会・国際問題が噴出している状況でもありました。

こうした中、中山の胸には「日本を出て、世界をこの目で見てみたい」という想いが日増しに強まっていきます。とはいえ当時日本はまだまだ貧しく、パスポートの発行や外貨持ち出しも厳しく制限されていた頃。海外に出られるのは商社マンか難しい試験に合格した留学生くらいで、一般国民にとっては夢のまた夢でした。

しかし中山は思い立ったら止まりません。持ち前の行動力を発揮し、あらゆるコネをフル活用してフランスの大学の入学許可を取り、パスポートを取得。軌道にのった居酒屋の経営を人に任せて、海外放浪へと旅立つのです。1963年、中山が23歳の時でした。

資金を稼ぎながら欧州・南米を放浪

1962-1964年 トルコにて1962-1964年 トルコにて

横浜港を船で出発した中山は、まずはソ連(現ロシア)のナホトカへ上陸。ソ連国内を旅した後、シベリア鉄道でフィンランドへ入り、6ヶ月かけてヨーロッパ中を駆け回ります。外貨持ち出し制限があったため手持ちの資金も乏しく、各地で港湾労働やレストランの皿洗いなどをして資金を稼ぎながらの旅でした。

中山の旅はそこで終わりません。ヨーロッパで稼いだ資金を手に、ドイツ・ハンブルグの港からまたしても船に乗り、南米へと向かいます。ブラジルのリオ・デ・ジャネイロからアルゼンチン、チリ、ボリビアと巡ります。途中、登山家でもある中山は、アルゼンチンとチリの境にあるエルプラタ6310mへの登頂にも挑みました。そしてペルーへたどり着きます。このペルーで、中山の人生は大きく変わることになるのです。

デンマーク・コペンハーゲンにて、東京オリンピック強化練習中のサッカー全日本チームを訪問

1962-1964年頃 デンマーク・コペンハーゲンにて
東京オリンピック強化練習中のサッカー全日本チームを訪問
最右端は渡辺正選手、最左端は山は鈴木良三選手。両者は、後の1968年メキシコオリンピックで銅メダルを獲得。
右から二番目が中山博允。

 

インディオたちに直接収入をもたらせる産業を起こすことを決意

ペルーに入った中山は、標高3000メートルを超えるアンデスの高地へ。そこで中山が目にしたもの。それは、奥深い山中で独自のコミュニティを形成している先住民インディオたちの、あまりにも貧しい生活ぶりでした。

当時のインディオたちは、細々と農作物をつくるだけで、現金収入を得られる産業など何もありません。富は首都リマなどの都市部に暮らす一部の特権階級に独占されている状況でした。こうした世の中の矛盾から生まれる貧富の差を目のあたりにして、中山は大きな義憤を感じます。そして、「インディオたちの伝統的な文化や生活壊すことなく、彼らに収入をもたらすことのできる産業を起こせないか」と模索し始めました。

毛を刈り取られたアルパカ毛を刈り取られたアルパカ

そこで中山が目をつけたのが、アンデスの広大な高原地帯で放牧されているアルパカや羊の毛を使ったニット衣類です。当時、とりわけアルパカの毛は、世界的にもまだ本格的に流通していない非常に貴重なもので、日本へ直接の輸出ルートはありませんでした。インディオたちが編むニットを自分たちが買い取り、日本に輸出する新しい仕組みをつくれば、都市部に住む特権階級に搾取されることなく、インディオたちに直接、現金収入を渡すことができる。アルパカや羊の毛は再生可能なので、一度売ったらそれでおしまい、と ならない。しかもニットを手で編む、ということなら急速な工業化によりインディオたちの伝統的なコミュニティを破壊したり、環境を汚染したりすることにもならない―。中山はこう考えたのです。

品質向上へ向け、現地に工場を設立

1965年、中山は2年間に及んだ海外放浪から帰国。居酒屋経営や、横浜港に入港する外国船相手の食料品などの物資販売といった仕事をする傍ら、1970年より南米に移住した友人らを通し、ペルー産のニットや素焼きの壺などの民芸雑貨の輸入業を開始しました。しかし、当初扱っていたニット製品は、衣類というよりむしろ民芸品のようなもの。インディオたちの編み物の技術も充分ではありません。腕の長さが左右で違ったり、ボタンがすぐに外れてしまったりと、とても日本人の求めるクオリティを満たすものではありませんでした。

「製品の品質を向上させないとどうにもならない」。そう考えた中山は1975年、現地での生産指導に乗り出すことを決意。ペルーのプーノという街にニット製品の工場を設立します。プノは首都リマから飛行機で1時間ほどかかる、アンデス山中・チチカカ湖のほとりにある標高3800メートルの街。工場とはいっても小屋のようなもので、構内には機械もなく、ただ編み物ができるスペースがあるだけです。中山は日本からこの工場に、高度な技術を備えた編み物の指導員を派遣。まずは数名のインディオ女性の編み子さんに、徹底的に技術を教え込みました。

工場がコミュニケーションの場としても機能

インディオの編み子さんたちのほとんどは普段、周辺の村で農業を営んでいる人たち。毎週日曜日に編み物の技術を教えた上で糸を与え、翌週までに農作業や子育ての合間をぬって、教えたとおりのニットを編んできてもらうようにしました。編み上がったニットは、現地で雇ったこれもインディオの社員がサイズや仕上がりを検品。OKだったらその場ですぐに買い取ります。貴重な現金収入が得られるということで、編み子さんは大喜び。口コミで話が伝わり、工場には「自分もやってみたい」というインディオの女性が集まってくるようになりました。

ニットを編むインディオたちニットを編むインディオたち

単に現金収入が得られることだけが彼女たちの喜びではありません。インディオの女性たちは広大な高地に散らばって暮らしていたため、日頃お互い交流することはめったにありませんでした。中山が設立したこの工場は、そうした女性たちのコミュニケーションの場としても機能することになったのです。毎週日曜日になると、数百名にも及ぶ編み子さんたちが、大切に編んだニットを手に工場に来て、おしゃべりに花を咲かせます。なかには30〜40kmも離れた遠くの村から歩いてやってくる編み子さんもいたそうです。技術指導の甲斐あって、ニット製品のクオリティは格段にアップ。日本人の好みに合うよう、デザインも日本人のデザイナーが手掛け、それを現地の人々につくってもらうようにしました。

販売ルート開拓に奔走。インド生地の輸出業も開始

一方で中山は、日本での販売ルートの開拓にも走り回りました。誰もが名前を知る日本のトップアパレルメーカーの経営者たちに飛び込み営業。当時はアパレルメーカーも「海外モノ」に飢えており、新しい素材を常に探していたため、中山の持ち込んだアルパカなどの毛糸を使ったニット類を喜んで購入してくれました。トップメーカーでの商品の扱いが始まり、大きな注目を集めると、他の多くのメーカーからの注文も相次ぐように。こうして販路はどんどん広がっていきました。

インド・ケララにある機屋インド・ケララにある機屋

1978年には、ペルーの首都リマに事業所を開設。日本人駐在員を置いて、より現地に密着した体制を確立しました。一方で中山は、これらの活動と並行して、ペルー同様に貧富の差が大きいインドからの生地の輸入業も開始。この際も日本から最新式の機械を持ち込むのではなく、あえてインドの人々が昔から使っている伝統的な機械で織ることで、古き良きインドのオリジナリティを感じられる素材を輸入することにこだわりました。

挑戦はまだまだ続く

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今でもプーノにある中山商店の工場の様子は、基本的には40年以上前となんら変わることがありません。インディオの編み子さんたちが並んで腰掛け、時にはおしゃべりを交わしながらひと編みひと編み、せっせと針を動かしていきます。発注量の増大に伴い、編み子さんの数は今では700人近くに。リマのオフィスでも12人の社員が働いています。インドの生地についても、生地そのものの輸入に加えて、シャツやワンピースなどのデザインオーダーをいただいて提携工場で生産することが増えています。

現地の人々と一緒になって、よりクオリティの高い製品を日本の皆様にお届けする。中山商店の挑戦はまだまだ続いていきます。これからもどうぞご期待ください。